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基础日语二 第五册 课文(第一课~第十二课)

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基础日语二 第五册 课文(第一课~第十二课)

第一課 めくらになった名僧


八世紀も半ばごろのことでした。
奈良の都は、毎日、たいへんな騒ぎでした。東大寺という大きな寺の大仏が、やっとできあがったからです。「大仏開眼」といって、大仏が完成したことを祝う儀式が行われるのも、もう間近いことでしょう。
ところで、このお祝いを前にして、聖武天皇は、心の中で、一人の人を待っていました。
「こんどの式に間に合えばよいが……。」
もう何年も前から、待ちわびている人があったのです。しかし、どういうわけか、その人をむかえに行った使者からのたよりは絶えて、すでに何年にもなります。
「いったい、来てくれるのだろうか、だめなのだろうか。来てくれるならば、この晴れの日にぜひ、間に合ってもらいたい。」
聖武天皇は、そのことばかりを考えていました。いったいだれを、そんなに待ちわびていたのでしょうか。
話は十年ばかり前にさかのぼります。
そのころ、日本には、中国から、おおぜいの僧が渡ってきていました。また、これとひきかえに、日本からも、毎年何人かの留学僧が、海を渡って中国へ出かけて行きました。
「中国から、すぐれたお坊さんを、ひとりつれてきてもらいたい。」
ある年、ふたりの留学僧が、聖武天皇からこうたのまれました。というのは、そのころの日本には、戒を授けることのできる僧がいませんでした。天皇はそれのできるえらい人がほしがったのでした。
戒と言うのは、仏教で、僧たちが守らなければならない規律のことです。僧たちの間では、やってはいけないことがいくつかきめられてあって、それを守ることができなければ、一人前の僧にはなれません。そして、その規律を守ることができるようになったとき戒を受けるのです。
日本でも、仏教が盛んになって、戒を受けることができる僧はたくさんいました。しかし、戒を授ける資格をもった僧は、ひとりもいなかったのでした。
中国へ渡った二人の僧は、唐の揚州という所に鑑真という、すぐれた僧のいることを聞きました。この人に来てもらえたら、というので、はるばるたずねていきました。そして、ことばをつくして、どうか日本へ来てくださるようにと、頼んだのでした。
鑑真は、子供の時から、熱心な仏教の信仰を持ち、十八歳のころには、もう一人前のすぐれた僧になっていました。かれは海の向こうの日本から、ふたりの僧がわざわざ自分を招きに来た、その熱心さに心を打たれました。そして、遠い見知らぬ日本の国へ渡る決心をしました。
鑑真は、そのころすでに五十歳を越えていました。かれが行くことになったので、何人かの弟子たちも、いっしょに行くことになりました。一同は、さっそく、その準備に取り掛かりました。あくる年には船を出すことになりました。
しかし、この旅行は、そう簡単には、運びませんでした。せっかく海に出た船は、大しけにあって、難破してしまいました。やっと助けられて、命からがら陸にあがると、次の出発まで、また船を用意したり、いろいろの準備に手間取りました。
やがて準備ができて海に出ると、こんどは海賊に襲われました。だいじな物を取られたりして、また、むなしく、戻らなければなりませんでした。そればかりでなく、鑑真の渡航をねたんで、いろいろのじゃまをする人たちもありました。
一行のうちには、たび重なる失敗に、すっかりいくじがなくなって、こんなばかげた旅をするのはやめようじゃないか、などという者も出てくる始末でした。苦しいことが続くので、つい仲間割れをして、けんかが始まったり、自分だけ、得をしようとする人が出てきたりしました。
そんなときにも、鑑真は、いつもだまって、ひとりでがまんをしているのでした。どんなときでも、その顔からは微笑が消えません。人々は、その微笑を見ると心を励まされ、また、旅を続けようという、勇気がわいてくるのでした。
こうして、何度か失敗が重なりました。
悪いときには悪いもので、そのうち、日本から迎えに来た僧のひとりが病気にかかり、とうとう、旅の空で死んでゆきました。だいじな人に死なれて、鑑真がすっかり力を落としてさびしくしているとき、こんどは、この人のあとを追うように、一番弟子がなくなりました。
つえとも柱ともたのむふたりの死は、鑑真にとっては、おおきな痛手でした。年をとっていることではあるし、重なる苦労に、鑑真のからだも、だんだん弱くなっていくのでした。大きな不幸が鑑真にも訪れたのは、このころでした。
ある日、弟子のひとりは、鑑真が手探りで、何かごそごそやっているのを見て、びっくりしました。目が見えないのでした。長い間の疲れが、とうとう、この年とった僧を失明させてしまったのです。
鑑真は、それでも微笑を忘れませんでした。そして、どこまでも、日本へ行く志を捨てませんでした。これから日本へ行って、自分のする仕事を考えるとき、鑑真の心は、ほのおのように燃え、光を失った目は、明るく輝くように思われるのでした。
五回の旅の失敗ののち、六回目に、鑑真は、とうとう日本に着くことができました。ちょうど、日本へ帰ることになっていた遣唐使の船に乗って、九州について、無事に奈良の都へ来ることができたのです。この旅を思い立ってから、実に十一年目でした。
唐の国でも名の聞こえていた鑑真が来たというので、奈良では、聖武天皇はじめ、たくさんの僧たちは、ひじょうに喜びました、あの大仏開眼からは、すでに二年の月日がたっていました。めくらになってその苦しさをがまんして、はるばる海を渡って来たこの名僧を、人々はていちょうにもてなしました。
あくる年、東大寺の前で、天皇をはじめ、五百人にあまる僧たちが、めくらの鑑真から初めて戒を受けました。鑑真が戒を授けた所は、戒壇院といって、今も東大寺の中に残っています。
鑑真は、その後、広い土地を朝廷からもらって、りっぱな寺を建てました。そして、多くの人々を教え導きました。ふたたび、故郷の唐へ帰ることもなく、十年ほどたってから、その寺で一生を終わりました。七十七歳だったと言われています。この寺が、いまも奈良の南にある唐招提寺です。
若葉して御目の雫脱ぐはばや   芭蕉
唐招提寺に残されている鑑真の像を見て、江戸時代の俳人芭蕉が作った句です。「かがやかしい新緑のやわらかい若葉で、めくらになった鑑真の目にたたえられたなみだを、ぬぐってあげたいものだ。ああ、どんなにつらい目にあわれたことだろうか。」
という気持ちをよんだものです。鑑真の像は、天平期の傑作と伝えられています。気品の高い名僧の面影が、今でも、仰ぎ見る人の心を打ちます。
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第二課 命をかけて
今から六十年ほど前、明治二十八年(一八九五年)八月のことです。
富士山の頂、剣が峰に、不思議な小屋が建てられました。南北約五・五メートル、東西約三・五メートル、高さ約三メートルの木造の平屋です。屋根には、かたつむりの角のように、ぼうがいく本もつき出ていました。小屋の上の岩の上には、おわんのようなものが、くるくる回っていました。家のまわり、冬に備えて、石でしっかりと囲まれていました。
「和田先生、おかげさまで、とうとうできました。」
まだわかい野中到は、すこし興奮して、頬を赤らめながら、うれしそうに言いました。
「うん、できた。とうとう日本にも高山気象観測所ができた。全く野中君のおかげだ。」
そう答えたのは、中央気象台の天気予報課長の和田雄治技師でした。
「いいえ、何もかも先生のおかげです。」
この時まで、日本のどこにも高山気象観測所はありませんでした。外国では前から、アルプスのモンブランにも、ミナミアメリカのミスチー山にもあって、一年じゅうの気象の様子がくわしく調べられていました。高い所の気象が分からなければ、漁業や農業・交通など、大切な仕事に役立つ正しい天気予報はできません。
気象観測の重要性を知った野中到は、二十三歳の時、
「どうかして、日本にも高山気象観測所を造りたい。」と考えて、和田技師をたずね、気象学の勉強から始めました。
そして、七年後のきょう、とうとう富士山の頂に、その私設観測所を創設したのです。和田技師の指導で、必要な器械類の備え付けをして、これからの観測のしかたについても、いろいろ注意を受けました。
「さあ、この一冬を、ここでしっかりがんばるぞ。」
長年の願いがかなった到は、喜び勇んで、妻の千代子と三歳になる長女を東京に置いて、明治二十八年の九月三十日、今度は、ただひとりで、この私設観測所へ登って来ました。そして、次の日の十月一日から、日本最初の高山気象観測を始めたのです。
世間の人たちは、目を丸くして、驚きました。
「富士山のてっぺんで一冬越すなんて、死ににいくようなものだ。野中さんは、気でも狂ったのではないか。」
確かに、そのころ、冬を目指して富士山に登るなどということは、思いもよらないことでした。冬になると、山の頂と下界とは、全く切り離されてしまうのです。病気になっても、医者どころか、水いっぱい運んでくれる者もありません。万一のことを思って、和田技師をはじめ、気象台の人々は、心配しながら、到の熱心なこのくわだての成功を心から祈っていました。
十月の晴れた日の富士山の頂上からのながめは、ほんとうにすばらしいものでした。北には、富士五湖が青々と水をたたえ、南には伊豆の山々が連なって見えました。山すそののびた所には、静浦・田子の浦・三保の松原・清水港などが、一望のもとに見下ろせて、その美しいながめが、ひとりぼっちの到の心を楽しませてくれました。
ところが、十月も過ぎると、雪がふりだして、山の上は厳冬の季節に変わっていきました。半月ほどたったある日のことです。とつぜん、妻の千代子が、強力たちにささえられるようにして、山の頂上へ登って来ました。
「なんの用で来たんだ。」
到は、驚いてたずねました。
「お手伝いに参ります。」
「子供は?」
「九州の親元に預けてきました。」
「そうか。でも、ここはとても女のいられる所ではないぞ。すぐ戻ってくれ。」
「いいえ、あなたのそばで働きます。わたしだって、何かのお役にはきっと立つでしょう。」
千代子は、命を掛けた夫の仕事を助けたいと、かたい決心でここまで登ってきたのでした。
ふたりきりの、雲の上のあけくれが始まりました。今まで到ひとりの時は、一日二時間おきに十二回の観測とその処理、そして次の準備から食事のしたくで、休む暇もありませんでした。けれど、妻が来てから、食事の苦労がなくなりました。観測の記録も、忠実に手伝ってくれました。
「やはり、ひとりより、ふたりのほうが仕事がはかどる、千代子が来てくれて本当に助かった。」
到は心の中で感謝しました。
こうして、一か月は無事に観測を続けていくことができました。ところが、十一月にはいると、来る日も来る日も、強風が鳴り続け、粉雪がうずをまいて荒れ狂いました。小屋は雪にうずまって、気温は氷点下八度、九度、十度と、どんどん下がっていきました。
そして、十一月の中ごろには、妻の千代子がへんとうせんえんになって、四十度の熱にいく日も苦しみました。それがなおって、ほっとしたのもつかのま、妻のからだが浮腫んできました。空気の薄さから高山病にかかったのです。手当てのほどこしようがありません。
「かわいそうな千代子、次はわたしの番だ。だが、たおれてもやるぞ。」
到は、妻の看病をしながら、観測を続けていきました。
すると、どうしたことでしょう。十二月にはいると、妻の病気は次第によくなって、もとどおりの元気なからだになりました
「ありがたい、これで仕事が無事に進むぞ。」
到はほっと安心しました。
ところが、妻の病気が直ったかと思うと、今度は到のからだが浮腫んで腫れ上がり、高い熱に苦しむようになりました。
「なあに、心配することはない。千代子と同じように、そのうちになおる。」
到はそう思いました。けれども、病気は日増しに重くなっていきました。野菜の不足から来る重い脚気になったとは、気がつかなかったのです。
とうとう、立つことも歩くことも不自由になりました。食べ物ものどを通らなくなりました。息ひとつするのさえ苦しくなりました。
「なにくぞ。これくらいの病気に負けてたまるものか、だいじな仕事なのだ。春が来るまで、どうしてもがんばるぞ。」
到は、時間が来ると、死にもの狂いになって、ベッドからはい出しました。かべ伝いに、小屋のおくにある観測室へ、あえぎあえぎいざり寄って行きました。
「わたしが代わってやります。あなたはどうか、寝ていてください。」
いくらか観測の仕事を覚えた千代子が、拝むように言っても、到は聞き入れませんでした。
「わたしがやる、動けるうちは、是が非でもわたしにやらせてくれ。」
到は、死の恐れと戦いながら、風速と風向きを、湿度を、気温を、気圧を、そして積雪量を、ふぶきのあれくるう戸外に出て、調べました。それを計量し、記録していく到のすがた――。
かみの毛もひげもぼうぼうにのび、顔はむくんではれ上がり、目ばかりぎらぎらと光っていました。まるで、この世の人とは思われません。
表では、昼も夜も、暴風と雪がごうごうと音をたててほえ狂いました。岩の上に立てた風力計、いくたびもこおりついて、回らなくなりました。到は不自由なからだで岩を這い登り、柱についた氷のかたまりを、おのでたたきわりながら、その上の風力計のこしょうを直しました。
へやにはだんろの設備がありました。けれども、いくらまきを投げ込んでも、まるで氷のむろにいるようでした。ベッドの上にまで、すきまから粉雪が吹き込んできて積もりました。火の気のない観測室には、太さが三十センチもあるつららが垂れ下がりました。
到は、かっけの上に凍傷にまでかかってしまいました。そして病気が重くなるといっしょに、観測器械も次々にこわれ始めました。風速計も風向計も乾湿球湿度計も、役に立たなくなりました。そして、気圧計までも。
「ああ、代わりの器械がほしい。――来年までは、とても持てない。」
壊れた機械を見て、到は自分の病気のことなど忘れて嘆きました。
やがて、十二月半ばを過ぎました。到は、もうベッドから動くことができなくなっていました。観測小屋は、雪と氷にすっかりうずもれ、戸があかなくなりました。ふたりは、山小屋に閉じ込められてしまったのです。
十二月二十二日、その日は雪がやんで、強い風だけがふきあれていました。その風の中から、人の叫ぶ声が聞こえてきました。千代子がベッドに寝ている到に言いました。
「あなた、人の声です。だれか山に登ってきたようです。」
「なんだって。」
到の耳にも、その声は聞こえました。
「野中さあん……。野中さあん……。」
やがて、戸の外で呼び声がしました。千代子は大声で叫びました。
「はあい。」
けれども、戸は雪と氷に閉ざされてしまって、表からも内側からも開けることができません。
「よし、どこか破ってはいろう。」
人々の言い合う声がしました。そして、戸口の屋根が破られました。そこから飛び込んで来たのは、中央気象台の和田技師を真っ先に、警察署長や何人かの強力の人たちでした。
「野中君、無事だったか。」
和田技師は、飛びつくようにして、到の手をとりました。
「心配していたぞ。君の観測のもようを調査にやってきたんだが……。野中君、そのからだで、これ以上無理をしてはいけない。さっそく山を降りよう。」
「先生、わたしはおりません。病気も、もうだいぶいいんです。」
「だめだ、野中君。このままでいたら命がなくなってしまう。ぼくの勧めを聞いて、おりてくれ。」
「いいえ、先生。わたしが春までここでがんばらなければ、富士山での冬は、越せないことを知らせるだけです。そうなれば、日本では、いつまでたっても、この山に気象観測所はできません。どうかわたしをここに置いてください。」
到は、涙を流して頼みました。
「野中君、何を言うのだ。きみは、富士山の頂上で、冬が越せるということを、もうすでに証明したのだ。八十四日という長い間、氷点下二十度、三十度というこの山の頂上で、気象観測をやったではないか。これで、もっとよい設備と食料研究さえしたら、一年じゅうでも、富士山の頂上で観測できることがわかったのだ。」
和田技師は、強力たちに、到のからだを毛布でしっかりとくるませて、そのなかのひとりに背負わせました。みんなは、到と千代子を真ん中にして、強風にあおられながら、雪をふみしめみしめ、ふもとへと下がって行きました。
富士山の頂上に気象観測所を造るという到の念願がかなえられたのは、それから三十七年も過ぎた、昭和七年七月四日のことでした。妻の千代子も和田技師も、もうなくなっていましたが、到は元気でした。六十五歳になった到は、その年の八月、妻の写真を胸に抱いて、富士山の頂上へ登って行きました。
晴れ渡った富士山の頂上に新しく建った高山気象観測所。その測風塔には、南風を受けた風力計が、勢いよく、くるくると回っていました。
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第三課 フシダカバチの秘密


フシダカバチには、全く不思議な力がある。
一つは、幼虫の食物にするゾウムシを、実に見事な方法でいつまでも保存しておくことである。もう一つは、似たような形や大きさの昆虫がいくらでもいるのに、それらには目もくれず、ゾウムシだけを捕まえてくることである。
そこには、どのような秘密が隠されているのだろう。
わたしは、ゾウムシを、フシダカバチの巣穴からほり出したり、フシダカバチから横取りしたりしてみた。このようにして手に入れたゾウムシは動く力は失われていたが、その体つきは生きているときとそっくりであった。あざやかな色、しなやかな関節など、動きださないのが不思議なくらいである。虫眼鏡で見ても、傷一つ見つからない。じっと見つめていると、虫が今にも動きだし、歩き始めるのではないかと思われてくるのだ。
わたしは、試しにこの虫たちを、ガラス管や紙ぶくろの中に入れてほうっておいた。ふつうに死んだ虫なら、暑い季節には、からからに乾いて粉々になってしまうし、また、湿っぽい季節には、腐ってかびが生えてくる。ところが、この虫たちは一か月以上たっても、乾きも腐りもせず、みずみずしいままで、生きている虫と同じくらいやすやすと解剖ができる。どう考えても、死んだとも思えないし、防腐剤を使ったとも思えない。動物の激しく動き回る生活から、静かな植物の生活に変ったに過ぎないのではなかろうか。
この植物的な生活の営みは、ゆっくりと、そしてひそやかに行われている。その証拠に、このゾウムシはふんをする。もっとも、それはゾウムシが眠りに入った最初の週の間だけ、時間をおいて規則的に行われるので、おなかの中の物がすっかりなくなると、止まってしまう。それは、実際に解剖をしてみてよくわかったことである。
この虫が仄かに見せる生命の流れは、それだけではない。わたしは、ゾウムシに刺激を与えるために、おがくずをベンジンで浸してびんの中に入れ、その上にゾウムシを置いてみた。すると、驚いたことに、十五分ばかりの間、ゾウムシは、ひげと足とを動かし続けた。わたしはこの実験を、フシダカバチが捕まえてきてから数時間後のゾウムシと、三、四日たったゾウムシとにやってみたが、どちらもうまくいった。しかし、捕まえてきてから十日もたったゾウムシでは、もうなんの反応も示さなかった。
わたしは次に、別のゾウムシに、電流で刺激を与える実験を思いついた。電池に細い針金を付け、一方の針金の先をゾウムシの腹の最後の節に、もう一方の先を首の下に差し込む方法である。すると、電流を通じたり切ったりするたびに、足が縮んだり伸びたりする。この動きは、捕まえてきてから最初の数日間は非常に強く現れ、それからだんだんと弱くなった。そして、十五日目には、全く反応を示さなくなった。
わたしは念のために、ベンジンや硫黄ガスで殺したオサムシダマシやエゾカミキリに、同じ電気の実験をやってみた。しかし、これらの虫は死後二時間ばかりしかたっていないのに、足はぜんぜん動かなかった。これらの実験の結果、このハチの獲物のゾウムシは、死んでもいないし、防腐剤で腐らないようにしてあるのでもないということがはっきりした。おそらくゾウムシは、体を動かす運動中枢をまひさせられて動けなくなっているにちがいない。
もしそうだとすると、まず確かめておかなければならないのは、フシダカバチの攻撃のやり方である。あの硬いよろいを着た、継ぎ目がぴったり合わさったゾウムシの体のどこに針を刺すのだろうか。虫眼鏡で見ても針の跡はわからないのだから、どうしても、このハチが獲物を刺す現場をはっきりとこの目で確かめる必要がある。
さて、フシダカバチが狩りに出かけるときは、べつに決まった方法を選ぶわけではない。時にはあっちへ、時にはこっちへというふうに飛び立っていく。そして、十分もたたないうちに獲物を抱えて帰ってくる。だから、巣の周り近所一帯が、どこも狩り場なのだ。わたしは、巣穴の近くをできるだけ注意しながら、用心深い半日あまりも歩き回ってみた。しかし、狩りをしている現場にはとうとう一度もぶつからなかった。
そこで、わたしは考えた。巣穴の近くに、生きているゾウムシを置いておいたら、ハチは手近にあるこの獲物に引き寄せられ、あるいは狩りの現場を見せてくれるのではなかろうか。この名案は、成功しそうに思えた。わたしは、すぐ次の日からゾウムシ集めにかかった。ぶどう畑、ウマゴヤシの原っぱ、麦畑、垣根、小石の山、道端など、二日間歩き回ってくたくたになるほど骨を折ったあげく、やっとみつけたのはたった三匹のゾウムシだった。それも元気のない、ひげや足の取れたうすぎたないやつで、ハチのお気にめさないかもしれないような貧弱な獲物にすぎなかった。
それでもわたしは、やっと手に入れたその貧弱な獲物で実験を始めることにした。やがて、ブーンと一匹のハチが獲物を抱えて、巣穴に入っていった。そいつがもう一度狩りに出かける前に、巣穴のそばにゾウムシを置いてみた。フシダカバチが大きな顔を出し、穴から出てきた。ハチは自分の巣の周りを、かまわずあちらこちらと大またに歩く。ゾウムシを見つけ、近寄り、もどり、何度かゾウムシの背中の上を乗り越えた。そして、わたしが骨折って捕まえた獲物には目もくれず、さっさと飛び去ってしまった。ほかの巣穴でも試してみたが、結果は同じことだった。ハチは、わたしの採ってきたゾウムシが気に入らないのだ。多分、獲物がよぼよぼで年をとりすぎているのが気に入らないのか、または、わたしが獲物を指でつまんだので、そのにおいが残っているのが気に入らないのか、どちらかだろう。
そうだ、フシダカバチに、自分の身を守るために、針を使わずにはいられないように仕向けてみたらどうだろうか。わたしは早速、一つのびんの中にハチとゾウムシとを一匹ずつ閉じ込め、そのうえ、びんをゆすぶって両方を興奮させようとした。ところが、生まれつき敏感なフシダカバチは、相手の虫よりショックを受け、攻撃するどころか逃げようとする。役割はあべこべとなり、ゾウムシのほうが攻めてに回り、そのくちばしの先で相手の足を捕らえようとする。ハチはこわがって逃げ回るばかり。またしても、わたしの実験は失敗に終わった。
わたしは苦心の末、また次の手を考え出した。それは、ハチに気づかれないように、獲物をすりかえることだ。獲物狩りをしてもどってきたフシダカバチは、まず巣穴からいくらか離れたがけのふもとに降りる。そこから、苦労して獲物をがけの上にひっぱってうばい取り、すぐ身代わりのゾウムシをあてがった。この策略はうまくいった。ハチは、獲物がなくなったことに気がつくと、あわてて体の向きを変えた。そして、自分の獲物とすりかえられたゾウムシを見つけると、すぐにそいつに飛び掛り、足でかかえて運ぼうとする。ところが、このゾウムシはまだ元気でいる。ハチはすぐに気がつき、戦いが始まった。ハチはゾウムシと向かい合い、強い大あごで、いきなりゾウムシの長い口先をくわえ、びくともしないように押さえつける。ゾウムシは足を突っ張っている。ハチはゾウムシの腹の節が開くように、前足で背中をぎょっと押す。それと同時に、腹の先をゾウムシの体の下にくぐらせて、先をぐっと曲げ、前足と中足の間――前胸の真ん中の合わせ目に、二、三度繰り返して針を差し込む。瞬く間に、すべてが済んでしまった。
ゾウムシは、死にぎわの虫がよくやるように、もがきもしなければけいれんもしない。ただ、電気に打たれたように、それきり動かなくなってしまった。それからハチは、獲物を仰向けにひっくり返し、腹と腹を合わせ、足と足を絡み合わせて、かかえて飛び立っていく。
わたしは三匹のゾウムシを使って三度実験してみたが、ハチのやり方はいつも同じだった。もちろん、そのたびごとに、わたしは先ほど取り上げておいた獲物をハチに返し、自分のゾウムシを取り返してゆっくりと調べてみた。わたしは、ハチの獲物を狩る才能を高く買っていたのだったが、それはこの実験ではっきりと確かめられた。針を刺した辺りには、ほんのかすかな傷跡も、体液のにじみ出た跡も見つからなかった。針で刺された場所には、いったい何があるのだろうか。ハチは、針を刺す場所を教えてくれたので、その秘密もいくらわかった。しかし、なぞはすっかり解けたわけではない。
まず、もう一度、フシダカバチの生活について考えてみよう。地下の子供部屋に何匹かの獲物をしまいこみ、その獲物に卵を産み付ける。やがて、卵からかえった幼虫は、その獲物を食べて育っていくわけだ。ちょっと見たのでは、この食糧を蓄えることはなんでもないようだ。しかし、考えてみると、これは非常に難しいことである。
なぜかというと、幼虫のえさが本当に死んでしまわず、えさの内臓はじきに腐り、それを食べた幼虫は中毒を起こして死んでしまうだろう。そうかといって、生きたままのゾウムシを子供部屋に持ち込んだら、卵や卵からかえったばかりの体のやわらかい幼虫は、がんじょうなゾウムシに踏み潰されるかもしれない。だから、幼虫の食物は、生き生きとしていながら、動かないものでなくてはいけないわけだ。
こんなきれいな殺し方(本当は殺してしまうのではないが――)をしろと言われたら、わたしたちは困ってしまう。なにしろ、ゾウムシは、頭をもぎ取っても長いこと手足を動かしているような、生きる力の強い虫なのだ。それなのに、「幼虫にとって必要なのは、死んだものではなく、生きているけれど、もう動かない獲物なのだ。」などと言われたら、いったいどうしたらよいだろうか。
「それから、ますいをかければよい。」と考えつく人がいるに違いない。そうだ。まさしくそれである。殺さないで、しかも動かなくするには、獲物にますいをかける――つまり、しびれさせてすべての感じをなくしてしまえばよい。とにかく、場所をよく選んで、虫の神経器官を傷つけ、壊してしまえばよい。フシダカバチの狩りの秘密は、実にその点にあったのである。
これで一つの問題は解けたが、もう一つの、もっとやっかいな問題が残っている。フシダカバチが、似たようなたくさんの昆虫からなぜゾウムシだけを捕まえてくるのだろうか、という問題である。
ハチは、ただの一刺しで全身の運動の力をなくしてしまわなければならない。そのためには、獲物の神経の中枢に針を打ち込むことが必要だ。
ふつう、昆虫の手足を動かす神経の中枢、胸の部分に三つ並んでいる。これらは、それぞれ独立していて、一つがやられても、他の中枢には影響がない。ところが、ハチが三つの中枢に次々と針を刺すということは、とてもできそうにもない。しかし、もしその三つがくっつき、一つになっている昆虫がいたとしたらどうだろうか。それこそ、ハチの絶好の獲物になるはずである。
あの学者の研究を調べているうちに、ついにそれを発見した。神経の中枢がごく近くに寄り集まっているものの中に、ゾウムシの名前であった。
本当にそうかどうか、実験してみる必要がある。ペンの先にアンモニアを付けて、その場所に注射してみた。ゾウムシにはてきめんだった。しかし、胸の神経の中枢が互いに離れているものでは、全く違っている。激しくけいれんして暴れるが、やがてそれも治まり、平気な顔で歩き回るのである。
この結果、フシダカバチが獲物を選ぶとき、なぜゾウムシを選ぶのかということがはっきりとわかった。フシダカバチは、最も優れた生理学者や解剖学者だけしかできないようなことを、自然に与えられた本能の力によって見事にやってのけるのである。
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第四課 時候のあいさつ


日本では、私どもの日常生活のうえに、気象が、直接間接にかなりの影響を与えております。
雨が降らないからといっては節水し、長雨が降り続けば続いたで、秋の取入れを心配する。商業活動においても、傘がよく売れたかと思うと、涼しい夏は扇風機の在庫が増えることになる。そうかと思うと、全国民が南洋方面に発生した大型台風の進路に一喜一憂し、冬は冬で、日本海側は汽車が豪雪に立ち往生しているのに、太平洋岸は空っ風が吹きまくる。梅雨ともなれば、すべてが湿っぽく、気分までじめじめしてしまう。とにかく、被害もよく受けますが、恩恵も大きいというぐあいに、生活が気象に左右されることが多いのです。
そこで、天気に関することが、私どもの毎日の話題によくなります。日常のあいさつ、手紙の書き出し、すべて、天気の話から始まるようです。
私がアメリカに住んでいたとき、その間ほとんど、大陸の北西部、太平洋岸のシアトル市にいたのですが、ここは、一年の半分が霧雨に包まれたようになります。そして、あとの半分、三月から九月いっぱいは、抜けるような青空とそよ風が吹くすばらしい天気が続きます。つまり気候の変化が少ないのです。カリフォルニアで生活した一夏は、とうとう雨は一度も降らず、持っていった傘は無用の長物となりました。夏のカリフォルニアに傘を持っていくことが、そもそも、天気を知らない者のすることでした。夏をボストンで過ごそうとしたとき、アメリカ人から、ボストンの夏は暑いと脅かされました。しかし、東京の夏を知っている者には、暑いことは暑くても、東京ほどの猛暑とは感じられなかったのです。
このように、アメリカは大陸であるために、その土地土地によって相当の違いがあります。アメリカ人の恐ろしがる竜巻も出水も日照りもハリケーンもあります。しかし、なにしろ国土が広いので、それはアメリカ全体からみれば、ほんの一部のところの事件であるかのような印象を与えます。たいていのことが、遠いところの出来事であり、現在の自分の生活にはなんら影響がありません。
アメリカに比べると、日本は国土が狭く、島国で、そのうえ、アジア大陸と太平洋に挟まれて、気象が複雑に変化してゆきます。まるで日本全土が、その日その日の天気に振り回されているようです。
さて、アメリカの学生は、どうして日本人はそんなに天気、天気というのか、と不審があり、しまいには、天気の話は、small talk(ささいな話)であって、天気のことをいつも話題にするような人は、頭の程度を疑われてもしかたがないとまで言い出すのです。
たしかにアメリカのパーティーでは、だれでも次々に目新しい話題を持ち出し、人々を引き付けようと努力します。そうすることこそが、有能な人物である証拠ともなるし、社会的な評価もそこで決まってしまうかにみえます。そんな場で、たとえ初対面の相手であっても、天気のような無難な話題から切り出すようでは、その曲のなさに、たちまちあきられ、逃げ出されてしまうでしょう。自分を相手に印象付けることが、これでは完全に失敗です。
若い学生たちも、そのことの危険をよく知っています。ですから、彼らが日本にやってきて、実際に日本の目まぐるしく変る天気、はっきりした四季の移り変わり、四季とりどりの風情を、生活を通して体験するにもかかわらず、それをものめずらしい話題として持ち出すことはあっても、日常のあいさつとして、そのような天気のことはほとんど話題にしないものです。話題にするにしても、それは日本語で何とか間を持たせようとする努力の結果のようなところがあります。反対に、日本語で話せるチャンスはいつでも生かそうとするために、天気のことでもなんでも日本語の実践として話しそうとするものもあります。しかし、そのご本人が、英語で話している時は全く違っています。
私ども日本人の日常のあいさつで、よく学生が問題にするのは、隣近所の人たちとのあいさつです。
A いいお天気になりましたね。
B お出かけですか。
A ええ。ちょっとそこまで。
B 行っていらっしゃい。
というやりとりです。日本に住んでいる外国人で、少し日本語が話せると、きっと日本人からこんなふうに声をかけられるようになります。
こんなアメリカ人が、「どこへ行こうと、私の自由だ。」など、と言い出すと、わたしは「そらきた。」といつも思います。
「日本人はね、あなたがよそゆきの格好をしているのを見て、外出するらしいと思うでしょう。いつもと違うと感じるわけです。そのときに、その洋服はすてきだとか、今日はおきれいだとかは言わないのです。日本人は人との付き合い方が慎重だから、そういうことを言うのは、考えようによっては、失礼になることだってあるでしょう。けれど、なんとかして、今日のあなたは特別だ、ということを相手に伝えたいのです。どこへ行くかを聞いているのじゃないのです。そんなことを聞くのが失礼なことは十分知っているんです、日本人だって。だから、それをうけるほうも。『私のことを認めてくれてありがとう。でも、私の出かける先は私事であって、あなたには関係のないことだし、またあなたも、そこまで聞いているわけではないことを、私はよく承知しております。けれど、黙っていては、せっかくの好意を無にすることになるでしょう。』と考えるのです。だから、いちばん無難な答え方として、『ちょっとそこまで。』と答えるのです。そうすればね、相手は、出かける人に対するあいさつとして、これはほんとの気持ちで、『行っていらっしゃい。』って言うんです。わかるでしょう、日本人の心のやりとりが。」
まあ、下手な説明ですが、学生はなるほどと安心してくれて、それからは、日本人のそんなあいさつに、非難がましいことを言わないようになります。
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第五課 家族旅行


デカルトは、「世界という、この大きな本」と言った。世界が大きな本であるのなら、旅をすることは、その本のページを一枚一枚めくることである。そして、この本はひとりの人間が一生かかっても読みきれないだろう。時には、自分ひとりだけでページをめくるのもよかろう。また、知ったものどうしで、同じページを読み、その感想を語り合うことを楽しみとしてもいい。親が子に読んで聞かせることもあろう。この世界という本の読み方もさまざまだ。
わたしの読み方は、どちらかと言えば、日常の人間の目で旅の世界をながめ、旅の続きの目で、日常の生活を見るといった具合なのだ。普通の人々とは逆であるかもしれない。わたしは医者であるが、元来怠け者で、旅好きとはいえそうもない。それが、どういうわけか、次々と旅に追い立てられることになるのである。勉強や仕事のための旅もあるし、レジャーのための旅もある。へそ曲がりの人間だから、旅に出るとしたら、あてどない旅のしかたが好きなのだが、そのわたしが、子供連れ、家内連れの旅をよくするはめになるというのも不思議だ。ひとり旅は自由だが、普通の人間には、その自由に、わびしさの代価が付きまとう。長いひとり旅には、家族への、家族の住む世界へのノスタルジアが忍び込む。家族で旅をするときには、楽しさもあるが、煩わしさも避けられない。だが、煩わしさがなくて、楽しいだけだという旅を求めるのは、欲張りすぎている。家族というものは、旅に出ようと出まいと、初めっから終わりまでついて回るものなのだ。そういう覚悟がなければ、家族旅行などできるものではない。
わたしのそういう家族旅行の一つを、紹介してみることにしよう。
その日、出発の時から、三人の娘どもは大はしゃぎであった。そもそも彼女らは、はしゃいでいないほうが、まれなのだ。ともかく、彼女らはサーカスの道化師どもと思われるほど、大はしゃぎであった。というのは、子供たちに、今度は宮崎に飛行機で行き、「子供の国」公園をたずねてみよう、そこにらくだがいて、らくだに乗れるのだ、と話したからである。
日が照っていた。快晴であった。天気がいい日、飛行機に乗って地上を見下ろすのは、気持ちもいいし、おもしろい。子供たちに、「ほら、富士山だ。」「ほら、新幹線があそこを走ってるよ。」などと説明してやった。新幹線も空から見ると、まるで葉っぱの上をのそのそと這う毛虫のようである。
お昼近くに東京を出て、日のまだ高いうちに、私たちは宮崎に着いた。海も山も、美しかった。空の旅としては、これほど恵まれることはまれだろうと思った。
宮崎の観光は、空港が玄関口である。
空港から市内へ出る道筋の、亜熱帯樹の並木が、まず目につく。飛行機で東京や大阪から着いた人間に、ここは日本の南国なのだという印象を強く与える。子供たちも家内も、一瞬目を見張った。こういう点では、宮崎は、観光というもの、旅行というものを、よく演出していると言うことができるだろう。
わたしたちは、すぐ大淀川の川岸にあるホテルまで車で行った。空港のほうから来て橘橋を渡ると、すぐにフェニックスの豊かな姿が目に入る。そして大淀川に沿うて並ぶフェニックスと、その間に並んだ、南仏風の日よけ付きのベンチとテーブル。大胆な色彩の配合が、空の水色と重なって、東京あたりから来る人間には、ほのかな異国情緒さえ感じさせる。
一休みしてから、子供たちに約束してある「子供の国」公園に行くことにした。「子供の国」は、日南海岸の入口にある。青島の手前の海岸地帯を造園した、アイデアに溢れた楽しい公園だ。
「ここの公園は、ゴミが落ちてないわねえ。」
家内がそう私に言った。日本の観光地は、遠景の自然の美しい景色を売り物にするが、足元のごみは片付けないところが多い。富士山も遠くから見ると美しいが、五合目あたりは、弁当がらの山である。どこへ行ってもそうだから、わたしなども、ごみくずをちりばめた自然の美しさが、日本の景色の特徴ではないかと思ったりするほどだ。それが、この「子供の国」公園にはごみがないのだ。
公園は、蘇鉄やフェニックスや、その他の亜熱帯樹が豊かに育っていて、散歩が楽しかった。子供たちは、はしゃぎ通しであった。そして、ここの、伸び伸びとした、甘い空気を吸って、いつもの倍も動き回っているようだった。それは、すでに子供のエネルギーを持て余しぎみのわたしにとっては、迷惑すぎるほどであった。
迷路があって、子供たちは中に入ったが、出られなくなると、四つん這いになって、下のすきまから逃げ出してきた。
さて、いよいよ、駱駝である。あの、名前を口にしただけで子供たちが目を丸くした、駱駝である。だが、これは決して、名前のようにらくな乗り物ではない。アラビア風の仮装をした人がついて、ゆらりゆらりと、海岸沿いの道を往復する。大人にしてみれば、なんのことはないが、だが、子供にとっては、これだけのことがたいへんなことなのである。海岸沿いに、後ろには青島が見られ、前には「子供の国」公園の広々としたながめと、美しい海が広がる。
子供たちは、この世に生まれて、初めて駱駝に乗ったことで、満足であり、感激であったようだ。
ホテルに帰ると、電話がかかって来た。何事であろうと思うと、サービスの女の子からで、「窓からご覧ください、夕映えが美しいです。」と教えてくれた。すっかり宮崎ペースにはまってしまって、わたしたちは窓辺に行って、その夕日を眺めた。大淀川の上には、かもが無数に浮いて、夕映えを映した川面に静かに羽を休めていた。休息の気分がこの夕暮れの空気に満ちていた。
翌日は雨だった。わたしたちは、車で日南海岸をドライブすることにした。道から見える小さな山をおおう飫肥杉の形と、まるで夕日のさしたような、葉の赤い反映が美しかった。それが、この土地の人間の、自然に対する愛情のようなものを感じさせるのだった。
堀切峠からの海岸線のながめは有名であるし、美しい。しかし、この美しいものは、ありのままの自然だけではない。鬼のせんたく板も確かに珍しい風景を与えてくれるが、それは、美しい海岸道路と、それに沿うて手入れの行き届いたフェニックスや蘇鉄の並木がなかったら、大したものではない。平凡なものだろう。そして、これらの植物や道路は、もともとあったものでなく、作られ、数十年かかって育てられたものなのだ。広々とした、雨にけむった太平洋を車窓から眺めながら、風景を商品とする観光というものを、わたしはつくづくと考えた。堀切峠にも、看板はいっさいなく、みやげ売り場の、風景をそこなうバラックも見当たらない。これは、まさに徹底していると言うべきだった。
それからさらに進むと、山の陰から小弥太郎サボテン公園が現れた。南にかなり険しく迫っている山の、その頂上まで、びっしりとサボテンの山だ。
雨は、運よく、ここに来ると上がった。五月には山いっぱいサボテンの花が開き、サボテン祭りをするのだそうである。
わたしと家内は、サボテンのビックルスを食べてみたが、心配するように、のどがちくちくすることもない。黙って食べさせれば、サボテンとわかる人はおらぬだろう。
鵜戸神宮まで足を伸ばす。ここには最近トンネルができて、神宮までの道はらくになった。ここはたいへんな雨で、サボテン公園から借りて来たかさ役に立ったが、岩と海の男性的な自然、そして、自然林の深さは、雨の中でも悪いとは言えなかった。
これは決して負け惜しみではない。雨に洗われた木々の緑は、決して悪くないのである。これは古くから伝えられたままの、日本の伝統的な美意識というものである。
昼は、堀切峠の近くにあるドライブ・インまでもどって、魚すきを食べた。山ほどの魚と野菜を食べ、さらに、雑炊を作って食べた。雑炊を食べさせると、子供も家内も「おいしい、こんなうまいものたべたことがない。」と、大声を上げた。
それから、わたしたちは、また降り出した雨の中を飛行機で東京にもどった。一泊の旅としては、思い切って遠くまで来られるようになったものだ。帰りは雲の中の旅であった。その雲の中で考えた。
宮崎の自然は特に非凡なものではない、ただ、ここの人間の観光に対する考え方は非凡だと。宮崎のフェニックスは、今やこの地方の名物だし、観光のアクセントだ。だが、これは昔からあったものではない。数十年かかって育て上げたものだ。それが観光資源になっている。祖先伝来の観光資源を利用するだけで、かえってそこなうことの多い観光事業が目立つ中で、これは考えられていいことだ。これは、人工的な作られた観光資源にすぎぬという人もあるだろう。だが、日光や箱根の、ベルツやアーネスト=サトウを賛嘆させた杉並み木は、だれが植えたものか。われわれの祖先はわれわれに、いくつかのこうした観光資源を、そうなるとは知らずに残してくれた。われわれは、何を子供たちに残せるだろう。三十年前にフェニックスを植えた宮崎の観光の考え方、みやげもの屋・野立ちの看板を自然から追放し、ごみくずを落とさせない風景を作ったこと、そして、木を構え、花を植え、宮崎という自然全体を一つの絵に仕立てようとする、ある統一した視点、それらをわたしは考えた。
そして、家内に言った。
「そうだ、東京の観光業者たちに、宮崎を見学させたいね。」
わたしたちは顔をもう一度見合わせ、居眠り始めた子供たちを眺めた。
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第六課 沈黙の世界


満員電車で、乗客たちの行動を見ていて気がついたことがある。それは、このおびただしい数の、押しつぶされた人間たちが、例外無しに無表情で、しかも無言だ、という事実である。みんな、むっつりと黙って、つまらなそうな顔をしている。もとより、満員電車に乗っているということは、あんまり愉快な経験であろうはずがなく、この何千何万の通勤者たちが、いわしの缶詰めのごとくにつぶされ、なおかつ、にこにこおしゃべりをしているとするなら、それこそ不気味というべきであろう。無表情、無言、ということこそ、こうした場合の人間性なのである。
だが、その無表情、無言も程度問題だ、とわたしは思う。とりわけ、満員電車から降りるときに、無言で人を押しのけ、ドアに向かって移動する人々にぶつかると、なんとなく、変な気持ちになる。それは、あたかも人間のかたまりの真ん中を貫通して、巨大なモグラが動いているような感じなのだ。押しのけるほうも、押しのけられるほうも、ひたすら無言。それがわたしには不思議なのである。
同じようなことを、わたしは、例えばデパートのエレベーターなどでも経験する。ある階で止まると、突然に、奥のほうから無言のモグラが動いている。突然だから、こっちもびっくりする。いずれにせよ、あんまり、いい気持ちのものではない。
ちょっとひと言、声をかけてくれればいいのに、と思う。「降りますよ。」「ごめんなさい。」そういう簡単なひと言がかけられれば、こっちもそれを一つの準備刺激として、通過する空間を作るべく努力できるはずである。そして、「どうぞ。」という反応のことばも、おのずから出てこようというものだ。黙って、やたらに背中を押されていたのでは、なにがなにやらわからず、不愉快な思いをせざるをえない。
そのうえ、このモグラ人間の中には、しばしば、押し分け、かき分けながら、周りの人間たちを一種の敵意と憎悪に満ちたまなざしでにらみつける連中がいる。あたかも、自分が脱出のため四苦八苦しているのは、周りの人間たちがいけないからだ、といったような表情がそこにはある。そうした表情でにらまれると、こっちも腹が立ち、出させてやるものか、といった気持ちがかすめる。したがって、譲り合うというよりも、押し合う姿勢をとらざるをえなくなり、満員の電車やエレベーターは、ますます不愉快な経験となる。
さまざまなサービスの場面でも、われわれは、おしなべて沈黙民族だ。たとえば喫茶店で飲む一杯のコーヒーがそうだ、ウェイトレスが注文をとりにくる。われわれの多くは、ただ「コーヒー。」とひと言事務的につぶやく。彼女は、やがて無言のままコーヒーと伝票を、これまた事務的にポンとテーブルの上に置き、お客のほうも、黙々とコーヒーを飲み、金を払って帰っていく。これもまた、どうにかならないか、とわたしは思う。
こんなことを言うもの、ひょっとすると、わたし自身がアメリカやヨーロッパで暮らしたり、滞在したりした時の経験が背景にあるからなのかもしれない。同じ一杯のコーヒーでも、欧米、とりわけアメリカの社会ではだいぶ様子が違うのである。
例えば、アメリカでコーヒーショップに入る。ウェイトレスはメニューを持って、「おはようございます。ご機嫌いかが?」とまずこうくる。こっちのほうは、それに答えて、「ありがとう、まあまあだね、ところで……。」と、兎に角、何か物を言わざるを得ない仕掛けになっているのである。そして、そういう、行きずりの人間関係のウォーミング・アップの後に、コーヒーが運ばれてくるわけで、したがって、彼女のほうは、「お待たせしました。さあどうぞ。」ということになり、こちらとしても、「ありがとう。」という言葉が自然に出てくるものなのだ。
もとより、こんなふうにして交わされる二言三言の会話に実用的意味があるか、といえば、答えは否である。別にお天気がよかろうと悪かろうと、あるいは当方の機嫌がどうであろうと、そんなことは実のところ、問題ではない。要するに、この種の「会話」は、ことばの「意味」に照らして考えてみたら、まったく無意味という以外にいいようはないのである。しかし、この無意味なる会話のあるなしによって、人間どうしのかかわり合いの形は、ずいぶん異なったものになる。早い話、ぶすっ、と押し黙ったウェイトレスがガチャリとテーブルの上に置いてゆくコーヒーと、にっこりほほえんで、「さあどうぞ。」と置かれるコーヒーと、どっちがあなたにとっておいしいか。
日本文化が沈黙によって支配されているのは、いったいなぜか・――これは歴史的にも社会的に、極めて興味ある問題である。柳田国男先生がその著作の中で繰り返し指摘されたように、日本の民衆生活の中で、おしゃべりというものがマイナスの価値を持ち、ただ黙々と働くことが美徳とされてきたこと、そして、更に、そんな訳で「物言う術」を身につける機会を日本人の多くがもたなかったことも、その一因だろう。又、いちいち、あれをこうしろとか、こっちをどうしろとか、言葉を使わないでも以心伝心式の方法でどうにか社会を維持してきたという実績が、沈黙への自身を深めている、とみることもできる。それに、日本文化の中では、べらべらお喋りをするということは、処世術的にいって、おおむね損なことだ。出世しようと思ったら、ひたすら沈黙を守っているにこしたことはないのである。
わたしは、日本文化の改造などというだいそれたことに気炎をあげたくはない。しかし、満員電車から降りるときには、「すみません、降りますよ。」というひと言を、また、何かのサービスを受けたときには、「ありがとう。」というひと言を口にするという簡単な習慣が、一人でも多くの日本人の中に定着してほしいと思う。旗を立てて絶叫するのもけっこうだが、ふだんの小さな会話をだいじにしたいと思う。それだけで、ずいぶん身辺は明るくなるにちがいないのである。
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今日はもう疲れた。明日また送るから、ぜひ良い評価をお願いします
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